2010年3月 4日
シベリア抑留
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどに抑留し、強制労働に使役したことを指す。
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられたことにより、数多くの抑留者の命が失われた。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であった。1993年に来日したロシアのエリツィン大統領は、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と謝意を表明した。
収容所での生活
帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。
一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した(犠牲者数に関しては後述)。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
シベリア抑留の被害者は大変ひどい仕打ちを受けました。
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